[総研大ジャーナル2003年3号P27-31]
SOKENDAI総合研究

SSC計画中止にみる大型科学の問題

平田光司 総合研究大学院大学教授教育研究交流センター長
吉郡悦子 科学ジャーナリスト


アメリカにおける純粋科学分野での史上最大のプロジェクトであったSSC(Superc・nductingSuperC・llider=超伝導超大型衝突型加速器)計画は、計画開始から5年に満たない93年11月、議会の決定によって中止に追い込まれた。高エネルギー物理学にあらたな実りをもたらすことが期待された巨大科学計画はなぜ中止されるに至ったのか。大型装置をともなう科学計画は今後どう進めていくべきなのか。

SSCをめぐる内の問題・外の問題

高エネルギー物理学は物質の根源的な存在である素粒子を研究する分野であり、研究には加速器や測定器などの大型実験装置が欠かせない。加速器で電子、陽子などを高エネルギーに加速し、衝突させて高エネルギー素粒子反応をおこさせ、それを特別に設計された測定器で観測する。こうした装置はいずれも先端技術に基づく大規模なもので、建設には多くの研究者の共同研究と作業、膨大な費用と長い時間が必要である。管理運営業務も相当な組織をかかえておこなわれることになる。

SSCでは、局長87kmにおよぶ地下70mのトンネルを掘削し、そのなかに強力な超伝導磁石1万個を並べて20テラ電子ボルト(TeV)の2つの陽子ビームを発生させ、それらを衝突させる計画だった。研究のおもな目的は、まだ仮説であるヒッグス粒子の発見、あるいはそれにかわる現象を確認することである。高エネルギー物理学は、宇宙開発や核融合、あるいはヒトゲノム解析計画などと並ぶ巨大科学であるが、その目的は科、学者の知的好奇心に基づく純粋な科学的探求の色彩が強い。周辺分野や産業への波及的な効果がただちに期待できるわけではない。このような「役に立たない」科学が、冷戦下のアメリカでは国家によって強力に推進された。国民もまたそれを支持した。

しかし、SSC計画がまさに進みつつあった90-91年は、東西ドイツの統一、ソ連邦の崩壊と、冷戦構造が一気に崩れて国際政治体制の変化が強く意識される時代的雰囲気のなかにあった。深刻な財政不況が影を落としていた国内事情も見逃せない。これまで、SSC計画中止はこうした時代の節目に象徴的な事例として語られることが少なくなかった。「時代が変わった」ことが計画の成り行きに影響を与えなかったはずはないが、そうした外在的な問題だけではなく、巨大科学に内在する特徴的な問題が計画中止の根底にあったという側面も無視できない。ここでは内在する問題を中心にSSC計画がなぜ失敗したかを探ってみたい。そこにはこのプロジェクトに固有の問題ばかりでなく、巨大科学研究計画につきまといがちな問題もいくつか含まれていると思われるからである。

計画はどのように決まったか

20世紀の半ば、50-60年代は世界的に加速器の建設ラッシュが続いていた。これらの加速器によって次々に新たな素粒子が見つかり、クォークの概念が確立され、弱い相互作用と電磁相互作用を統一するワインバーグ・サラム理論や現在の標準理論への発展の基礎が築かれた。素粒子物理学にとっても研究者にとっても幸福な発展期であった。やがて加速器は、研究所ごとに研究者のイニシアチブのもとに推進される研究計画であるよりは、国家プロジェクトとしての色彩を強めていく。こうした方針のもとに共同利用施設としてシカゴ近郊にフェルミ国立加速器研究所(フェルミラボ)が建設された。この頃まで高エネルギー物理学をリードする立場にあったのは、史上初の巨大科学であるマンハッタン計画を成功させた物理学者グループであった。70-80年代になると、陽子加速器の性能の向上と、陽子・陽子または陽子・反陽子の衝突型加速器をつくることが課題となる。そのためには超伝導電磁石の利用と大量の反陽子を蓄積するためのビーム冷却技術とが必要な核心技術と考えられた。しかし、この流れのなかで先に成果を出したのはアメリカではなかった。83年、欧州原子核研究機構(CERN)でW粒子とZ粒子が発見されたことが、欧州に遅れをとったという気分をアメリカの高エネルギー物理学者にもたらしたとしても不思議はない。翌84年、この発見によって2人のヨーロッパの物理学者ファンデルメール(蘭)とルビア(伊)がノーベル賞を受けた。SSCの最初の構想が提案されたのは82年夏、アメリカ物理学会夏期勉強会の席上であった。当時アメリカで開発が進んでいた超伝導電磁石を採用して最高の性能をもつ陽子加速器を建設しようという具体的な計画である。アメリカがこの分野における研究の主導権を確実に握るチャンスと期待する気持ちも大いにあったろう。高エネルギー物理学界は熱狂的と言える支持をもってこの提案を受け入れ、実現に向けて動き出すことになった。84年には新しい加速器の概念設計を行うCentralDesignGroupがエネルギー省(DOE)の認可のもとに発足する。加速器物理学の専門家として名声を得ていたコーネル大学のM.ティクナーを中心に、いくつかの作業部会や委員会で検討が重ねられ、その成果は86年に概念設計報告書としてDOEに提出された。報告書のポイントは加速器の技術的可能性と費用である。このときのコスト計算によると、加速器建設に要する総費用は10年後の完成時の価格でおよそ53億ドルと見積もられた。87年1月、レーガン大統領はこの計画を認可。続いて連邦議会でも建設予算が承認された。88年には建設候補地がフェルミラボのあるイリノイ州とテキサス州の2カ所に絞られた。テキサス州ダラス近郊が最終的に選定されたのは89年1月のことである。時を同じくして、テキサスを地盤とするブッシュ新大統領が就任。この地はまたライト下院議長、ベンソン上院財政委員会長など大物議員の選挙区でもあった。さらに、テキサス州は加速器建設費の一部10億ドルを州予算から支出することを申し出ていた。建設地の選定は果たして合理的に行われたのか、何らかの政治的な力が働いたのではないかとの疑念は計画中止後も消えることがなかった。建設地が決まってからSSC研究所は計画の再検討をおこない、90年に報告書を公表した。86年の設計報告書から変わった点がふたつあった。ひとつは磁石の精度を向上させるために加速器内径を4cmから5cmに広げること。もうひとつは主リングヘの入射エネルギーをlTeVから2TeVに上げることである。この結果、予算額は当初見積もりの53億ドルから83億ドルに大幅に増加していた。

設計変更はなぜ生じたか

費用見積もりの60%ちかい膨張がSSC計画のその後の成り行きに投じた影は当然ながらきわめて大きいものであった。加速器の設計には本質的なリスクが存在する。加速器内の粒子の運動にはカオスという予測不能な現象が生じることがあり、ビームの長時間にわたる安定性を完全に保証することは原理的に不可能である。電磁石の精度はビームの安定性にとって最も大切な要素だが、実際の超伝導磁石の仕様は、多数の電磁石の製作誤差も考慮した大規模な計算機シミュレーションと経験や専門的カンによって決定する以外にない。入射エネルギーを高くすると粒子は磁石の製作誤差に鈍感になり、その分磁石の製作は容易になる。一方、入射エネルギーを上げると入射システム製作費が極端に膨らむことになる。86年報告書の最終設計値である口径4cm、入射エネルギーlTeVは、SSC計画を承認してもらうため予算の限界を配慮したぎりぎりの妥協案だったのではないだろうか。磁石専門家の間には、この製作誤差範囲内で大量の磁石を製造することは現実的でないとの意見が当時からあった。建設地決定後、実際に磁石の試作がおこなわれたが、設計どおりの磁石の製作はきわめて困難なことが明らかになっていった。86年設計案は加速器として万全でないというシミュレーションも公表された。だが、対案を専門的に十分に検討したうえで、5cm・2TeVへの設計変更がおこなわれた形跡は見あたらない。建設はすでに決定事項であるから、よりリスクの少ない設計にしておいたほうがよさそうだというムードが設計変更への流れを決めたのであろう。このような先端的な大型装置の設計では、原理からすべてを計算し尽くすシミュレーションはありえない。不確定要素を排除することは所詮できないのである。装置の設計自体も実験の一環であるといわざるを得ない不安定性がつきまとう。そのことは研究者や管理者も社会も認識しておく必要がある。逆に、物理学的にはわずかの修正であっても予算においては著しい差異となって現れるのが現実であることを研究者はわきまえておかなくてはならないだろう。このコスト増をアメリカ議会はそのまま了承はしなかった。増加分は国外に仰ぐことが求められた。SSC計画はここに至ってにわかに国際プロジェクトとならざるをえない条件が生じたのである。財政的な貢献を求める第一の目標となったのは、貿易摩擦や技術競争でアメリカにとって脅威と映っていた好況の日本であった。

誰が研究体制を動かしたか

SSCのような予算規模の大きい計画の遂行には軍や企業の管理運営に経験のある人材が必要と政府は考えた。SSC研究所の発足とともに、所長には高エネルギー物理学界の次代のホープと目されたR.シュウィッタースが任命されたものの、研究所運営の要にとなる統括マネージャーや電磁石部門などの責任者として配置されたのは、高エネルギー物理学には何の縁も経験もない軍や軍需産業の出身者だった。防衛費の削減と民生転換への動きのなかで活動の場を失いかけていた国防省の技術官僚や軍需産業関係者がかっこうの延命の場所を見つけた、とマスコミに椰楡されたのも無理からぬ異様な人事だったと言える。SSC計画を監督する立場にあった物理学者W.パノフスキーは「エネルギー省は加速器建設をあたかも日常的な研究物資買い付けのような感覚で扱い、あたらしい物理学を研究する場を創造するのだという意識はもちあわせていなかった。かつての加速器計画では、考案者、設計者、建設者のあいだに溝がなかったのに」とふり返る。加速器研究所では、建設も含めた開発研究の主要ポストは物理学者が担当するのが通例である。ところがSSCにおいては、物理学者である所長が権限と影響力を行使できるのは高エネルギー物理学理論と測定器部門に限定されており、肝心の加速器については手も足も出せない組織になっていた。物理学者と官僚たちのあいだに信頼感は生まれず、両者の溝は次第に広がっていった。経験豊富な加速器専門家を集めることは困難になり、SSCを去る物理学者も少なくなかった。こうした官僚的な研究所運営のもとでは、予算が計画どおりに執行されることに重点が置かれ、設計の改良によって費用を削減するなどの柔軟な対応はとりにくくなる。研究者が本来発揮するはずの資質は生かされなかった。超伝導磁石は研究者が技術者と協力しながら設計、試作し、量産モデルとして仕上げたのちに企業に製作を発注するのが筋道であろう。発注後も研究者が企業と細かい調整を繰り返すのが普通である。しかし、SSC研究所では磁石の開発・製作全体を研究者の頭越しに巨大軍事産業であったゼネラル・ダイナミクス社に丸ごと発注してしまった。研究者の学問的な探求心を無視しては最新鋭装置の開発は実現し得ないだろう。研究計画の規模が大きくなると、組織的な運営体制が必要になるのは確かである。だが、SSC計画では管理運営体制が研究者の指向と矛盾し、対立を生んだ。末期には「あの役人たちはよほど物理の成績が悪かったのだろう」という所長の失言が表面化したり、個人攻撃の文書が撒かれるなどのお粗末なごたごたまで報道される始末だった。研究中止の原因には多くの外的要素もあったであろうが、何よりも研究体制内部の問題が事態を追い込んだことは否定できない。

そして計画は挫折した

議会下院でSSC計画中止案がはじめて可決されたのは92年6月であった。予算増額を審議する討議の果てだった。その半年前、日本に財政的な貢献を期待するアメリカの要請が東京での日米首脳会談に持ち込まれた。しかし、予算不足が明らかとなってからの参加要請に対して、日本では困惑が広がるばかりだった。国際プロジェクトであるなら、課題の優先順位、計画立案、進め方の枠組みなどについて、あらかじめ参加国間の議論の場が設けられてしかるべきだろう。資金不足となったから金を出せと言わんばかりの進め方は、一般の人にはアメリカの傲慢と受け取られるほかなかった。下院の予想外の大差での中止案可決を受けて、SSC推進をめざす有力な物理学者たちは大統領への要請、議員への働きかけ、マスコミヘの訴えなどをにわかに展開した。そのひとりでノーベル物理学賞受賞者のJ.フリードマンは「政治家やマスコミと真剣につき合ったのはこの機会がはじめてだった。それまであまりにも物理学の世界しか知らなかった」と述懐している。SSC計画についての研究者と社会のコミュニケーションは、ここに至るまでまことに希薄だった。8月の上院の投票では計画継続が承認された。しかし、93年1月、クリントン大統領が就任すると、議員の顔ぶれにも変化が生じた。一方、議会予算管理局の調査で、SSC研究所の予算の超過支出、管理運営に問題が多いことが判明する。SSCをめぐる議会での議論は賛否が渦巻くことになり、下院で中止案可決、上院は続行承認、両院協議会に委託の経過が前年同様に繰り返された。あげくに10月、下院は再び大差で中止案を可決。結局SSC計画は、すでに建設が開始されていたにもかかわらず、中止となったのである。

これからの巨大純粋科学のありかたはこの時点ですでに20億ドルが支出され、トンネルの掘削は2割がた進み、装置の製作も始まっていた。トンネルを埋め戻すにはさらに10億ドルが必要とされた。歴史は必然と偶然のあやなすなかできまっていくのであろうが、見てきたような研究体制と社会状況のなかでのSSC計画中止は、かなりの必然性を帯びていたように思われる。高エネルギー物理学の中心的な研究機関では、これまでのところ研究者の指向と管理運営体制とにうまく折り合いをつけることに成功している。しかし、今後さらに大規模なプロジェクトをアカデミックな指向を生かしつつ運営していく方法については、真剣な研究がなされるべきであろう。大規模プロジェクトを管理運営する人材の育成も大きな課題である。大規模研究計画のリーダーは、計画の目的や技術的な問題に通暁しているばかりでなく、その社会的な位置づけも理解し、かつ責任ある説明能力を備えていなくてはならない。これからの研究者にとって、社会を知りそれに適切に対応していけること(社会リテラシー)は欠くことの出来ない素養となるであろう。総研大では、将来の科学を担う人材に共有されるべき「社会リテラシー」の構築をめざして、3回の夏期集中講義を計画している。科学と社会との関係を考えるうえでの基本的な視点を提供するとともに、科学政策、科学行政、科学ジャーナリズムなどの現実的な局面をとらえて、下に示す内容で講義と演習をおこなう。研究者が社会との繋がりを切実に意識せざるをえない局面は、近年急速に増えているのではないか。


本論考は、グループ研究「新分野の開拓」で始められ、共同研究「科学と社会」において深められた研究にもとづく。研究会メンバー、特に素粒子原子核専攻/高エネルギー加速器研究機構助手島岩義倍氏に感謝する。本稿は、平田の草稿と古都の取材メモをもとに討議を重ね、古都が全面的に書きあらためた。科学者とジャーナリストの共同作業の一例である。

平田光司(ひらた・こうじ)
大学では計測工学を学び、大学院とポスドク時は素粒子論を研究、高エネルギー加速器研究機構で加速器理論の研究に携わった。総合研究大学院大学に移ってからは、主に科学論を中心に研究しているが、1つの研究テーマは寿命がだいたい10年なので、そろそろ転換の頃か?著書に『加速器とビームの物理』(岩波書店)など

古都悦子(ふるこおり・えつこ)
学生時代は化学と科学史・科学哲学を学ぶ。テクノビジネス誌編集長を務めたのち、93年MITナイト科学ジャーナリズムフェロー。94年からフリーで活動。国立子供図書館立案、日本科学未来館開館時の展示企画コーディネーションなどに携わる。著書に『リアルタイムMIT』(東京化学同人)、減功にはわけがある』(朝日選書)(共著)ほか。